2025年10月12日 第二礼拝 スチュワードシップ「献金」
説教題『先立つ愛と恵み』第二コリント9章6~10節
主任牧師 加藤 誠
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。」(第二コリント9:7)
宗教における献金は微妙な問題をいろいろと含んでいます。例えば、御利益と結びついた献金があります。献金した分、御利益が保証されるのです。また脅しによる献金があります。そのままだと呪いと裁きが及ぶ、そこから守られるために献金しなさいと脅されます。さらにマインドコントロールによる献金、人の思考力を奪う献金があります。「あなたは何も考えるな。ただ教祖様の言うことだけを信じて従え」。そこでは財産だけでなく人生そのものが根こそぎでコントロール下に置かれていきます。
それに対して聖書の献金は、第二コリント9:7にあるように主なる神の愛と恵みに対する自由な応答です。そこに強制はありません。チェックもありません。ただし自由なだけ、献金にはその人のその時の信仰の状態がそのまま映し出されます。神さまときちんと向かい合い、神さまの愛と恵みにつなげられているか。その時の神さまとの関係が献金にそのまま映し出されます。神さまとの関係がずれていれば、献金は自分中心のものになります。気が向けば献金する。いいことがあれば献金する。教会が面白くないと献金はやめておこう。それは自分中心の献金であり、神さまの愛と恵みに対する献金にはならないのです。だから、あなたが今、どういう信仰の状態なのか、自分で自分の信仰を吟味しなさいと、聖書は私たちに忠告しています。
自分自身の献金を考えたときに、課題になるのは自分の中に生まれる「惜しむ心」です。「献金するのがもったいない」。考えてみると「惜しむ心」は幼い時にその萌芽が見えます。小さな子どもがお菓子やおもちゃを取り合う姿に自分の姿が重なります。わたしの中の「惜しむ心」に悪知恵がくっついて、もっともらしい理由で「惜しむ心」を正当化するのです。今朝の6節は直訳するとこうなります。「つまり、わずかしか蒔かない者はわずかしか収穫できないし、祝福して蒔く者は祝福のうちに収穫するだろう」。新共同訳は「惜しんでわずかしか」とか「惜しまず豊かに」と訳してますが、これを訳した人は「惜しむ」という言葉を加えた方がよく伝わると考えたのでしょう。それくらい「惜しむ心」は厄介なほど私たちに巣くっている課題です。
聖書はそのような私たちの「惜しむ心」を問います。創世記のロトの妻は、自分の財産を惜しんで塩の柱になりました。畑が大豊作で収穫を収める倉をいくつも作って自分だけのものとして喜ぶ金持ちに神は言われます。「愚かな者よ。あなたの命は今晩のうちに取り去られる。そうしたら、あなたの財産はいったい誰のものになるのか?」。自分だけの楽しみにしがみつき、与えられた恵を分かち合うことを「惜しむ」愚かな金持ちに、主なる神はそう厳しく言われたのです。
そのように見ていくと「わたしの惜しむ心」は、命や恵み、慈しみのほんとうの所有者を勘違いするところに生まれることを知らされます。すべては神から与えられたもの。ほんとうの所有者である神を忘れて、自分が所有者だと勘違いする。そこに「惜しむ心」が生まれるのではないでしょうか。ですから聖書は「惜しむ私たち」に語りかけます。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。あなたは『自分の力と手の働きでこの富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、今日のようにしてくださったのである。それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげてを主を敬え。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(交読「献金」より)。
今朝の第二コリントでもパウロはこう続けます。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」ここで「喜んで与える者を…」とは、神の愛する条件が語られているのではありません。「献げた者を愛してくださるけれど、献げない者を愛さない」ということではないのです。神の愛は、私たちのあらゆる信仰や行為に先先だって無条件に、罪人である私たちに、いつでも豊かに注がれているからです。キリストは、私たちがまだ罪人であったときにその命を十字架にささげられたからです。それゆえ、私たちがその先立つ神の愛に応えて「祝福して蒔き」「喜んで与える」者とされていく時に経験する、神の豊かな恵みの幸いが語られているのです。
先ほど「惜しまず豊かに蒔く」という言葉が原文では「祝福して蒔く」と書かれていることを見ました。私たちが「多く蒔く」とか、「わずかしか蒔けない」ことは問題ではありません。聖書は私たちを祝福する生き方、自分が受けた神の祝福と感謝を誰かと分かち合っていく生き方に招いているのです。そのとき「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与えることができる。だから、あなたがたはあらゆる点で、あらゆる時に、あらゆる満たしを得て、あらゆる善き業に向かい、豊かになることができる」、素晴らしい恵みにあふれるほどにあずかるのです。
正直なところ、私たちの中には「惜しむ心」がいつも湧き起こってきます。昨日は喜んで献金できたのに、今日はしぶしぶ気が進まない。そういう実にいい加減な私たちの信仰です。それでも「先立つ神の愛と恵み」への信頼が大きくなる時、「惜しむ心」は小さくされていきます。「先立つ神の愛と恵み」に日々しっかりと目を注いでいくことができるように、日々、聖書の御言葉を受けていきましょう。